庄内の美術家たち アーカイブス

1907(明治40) 日本画家 小貫博堂が山形県立荘内中学校(現 鶴岡南高等学校)兼 西田川郡立荘内染織学校(現 鶴岡工業高等学校)に赴任する。小貫はこの地で図画教育に傾注し、以来、多くの画家が庄内地方から輩出する。
1909(明治42) 小貫博堂の主導により、西田川郡々会議事堂(のちの鶴岡市公会堂)を会場に「新派絵画展覧会」を開催。荘内中学校生徒作品、東京美術学校(現 東京藝術大学)帰省学生作品、参考出品として同校所蔵作品などを展示。「教育絵画展覧会」の前身となる。
1911(明治44) 第1回「絵画展覧会」を開催。以降、西田川郡々会議事堂を会場にほぼ毎年開催される。地域の児童・生徒の作品を一堂に展示するほか、東京美術学校や中央画壇から優れた作品が集められ、日本画を中心に当時の美術表現をいち早く紹介する。
1917(大正 6) 第5回展を開催。展示作品は約1,400 点にのぼり、連日盛況の記録。
1922(大正11) 第10回展を開催。この年のみ東京美術学校卒業生および在学生が主宰し常念寺(鶴岡市)を会場にする。
1924(大正13) 第11回「教育絵画展覧会」を開催(この年から展覧会名改称)
この年、山形県立鶴岡中学校(現 鶴岡南高等学校)在学生による洋画主体の「白虹社」が誕生、大宝館(鶴岡市)で第1回展を開催(翌年から「白甕社」と改称、会場を鶴岡市公会堂とする)。以降、教育絵画展覧会とともに庄内の美術界を牽引する。
1927(昭和 2) 第14回展を開催。鶴岡市の主催となる(実質は小貫が継続して主導する)
1930(昭和 5) 第17回展を開催。市内各中学校および小学校絵画部の主催となる。
1934(昭和 9) 第21回展を開催。同展に小貫芸術賞を規定する。
1939(昭和14) 第26回展を「庄内絵画展覧会並びに皇軍慰問展覧会」の名称で開催。会期4日目となる最終日午前までに17,000 名を超える入場の記録。
1943(昭和18) 第30回展を開催。最後の開催となる。